畠山鈴香の心・2

鈴香の心の闇の行くへは?

前回の記事の続きです。

畠山鈴香被告の父親も、この典型だったのでしょう。
彼女は、父親の怒りや、憎しみ、ストレスのはけ口や憂さ晴らしの対象であり、生け贄とされていました。
形だけの子供だったということです。
食べ物だけを与えられ、飼育されたブロイラー(養鶏)と同列です。
このような子供は、世の中に溢れています。

親の愛情を受けて育たないと言うことは、誰の人生にとっても決定的です。
非常に不幸なものにします。
彼女の場合は、暴力的な父親が彼女の荒廃し寒々とした心を構築した最大の元凶でした。
彼こそが、娘からまともな人間としての心を奪ったと言えるでしょう。
父親が、別の人間性を持ち、別の接し方をしていたなら、彼女の心に魔物が住むことはなかったはずです。
父親こそが影の主犯と言えます。

しかし、父親は事件後、他界してしまいました。
父親としての責任を問われないまま、とらないままに、消え去ったわけです。
親子の間で解決されなければならない本質的な矛盾は、空中分解してしまいました。
凍った心は、永遠に融解する機会を失ってしまいました。
残滓となったこの矛盾は、彼女の中で生ある限りいつまでも燻り続けるでしょう。

畠山鈴香被告は、性的な欲求を強く持っています。
男との関係に強く拘泥しています。
これは一見、肉欲の形を取っていますが、その深層にあるのは温かい触れ合い、愛情を求める心理作用です。

彼女は、本来は父親から得られずはずの愛情が得られませんでした。
その逆の物、つまり憎しみや残虐、冷酷な仕打ちしか与えられませんでした。
そこが大きく欠落したまま成人してしまいました。
そこで、その欠落した部分を他の男に求めていたのです。
父親からの愛の代償です。

女性が男に対し、強い密着を求める場合や大きな期待を抱く場合は、常に父親との関係が背後にあります。
満たされなかった父親からの愛のレコンキスタ(失地回復)です。

しかし通常、父親から与えられなかった愛が他の男で満たされることは、ほとんどありません。
たいてい、真の触れ合い、愛を求めて、遍歴を繰り返すことになります。
それは、愛情のある豊かな男性を見抜く目を持っていないからです。
そのような男性に間近に接した経験がないからです。
また、男性に過大な期待や理想を抱き、相手に求めることが多いからです。

彼女の場合も、例外でありませんでした。
そして、虚しい表面的、肉体的な交わりだけを繰り返しました。
見せ掛けの愛、偽りの愛でした。

鈴香被告は、満たされることなく、怒りと、憎しみと、恨みを充満させる生活を進めます。
彼女は、自暴自棄になり、虚無的になり、破滅的になっていきました。
そして、暗澹とした絶望の淵に立ちました。
その果てに、取り返しのつかない業火を放ってしまったのです。

この虚無と破滅願望は、今も彼女の心を捉えています。
拘置所内で自傷行為や自殺行為を繰り返しているそうです。
罪の償いについても、極刑(死罪)を望んでいるそうです。
文字通り、絶望は「死に至る病」となっています。

それにしても、彩香ちゃんは不憫です。
子供は、親を選べません。
いつの時代、どの国、どの場所で、どのような親の元に生まれるかは、完全に神の手の内にあります。

彩香ちゃんは、子供の育ちに最低限の食事でさえ、しばしばまともに与えられていませんでした。
お腹がすきすぎて倒れたこともあったといいます。
まともな食事の多くを学校の給食に頼っていたようです。
彩香ちゃんも、「給食が一番の楽しみだった」と口にしています。
その学校でさえも、そこでいじめを受けていた節があります。

鈴香被告が通院していた病院の医師は、「子供が苦手。子供以外に不満のはけ口がない。彩香とは2歳ごろから口をきいていない」と鈴香被告から説明されたと供述しています。
彩香ちゃんは、冷酷な家系に生まれてしまったばかりに、寂しく悲しい思いを受け続けました。
その挙げ句の果てに9歳で、最も愛するお母さんに幼い命を無惨にも奪われてしまったのです。
何と不憫なことでしょう。

しかも、全く関係のない米山豪憲君(7)まで、巻き添えにされてしまいました。
単に近所で、豪憲君の家庭が羨ましかったというだけの理由です。
操作を攪乱し、隠蔽を図るという目的も加わっているようです。

暴力的な親がいて、暴力的な家庭の中で、暴力的な育ち方をすれば、いつでも鈴鹿容疑者のような犯罪者が生まれます。
今回の事件は、それを見事に例証しています。

世の中に、彼女のような境遇の人は無数にいます。
彼女のような犯罪を犯す予備軍は、世の中に満ち溢れています。

彼らは、突然犯罪者に転落するか、そのまま緊張した人生を歩み続けるか、常にその瀬戸際に立っています。
危機に満ちた狭い稜線上を歩んでいます。
運命の帰趨を決するのは、ほんの些細なことだと言って良いでしょう。
他人に面罵されたとか、財布をなくしたとか、転倒して膝を擦り剥いたとか、そんなことでしょう。
ちょっとした怒りが大爆発のトリガー(引き金)になるということです。

彼らを支えるのは、結局のところ愛の手しかありません。
周囲からのごくわずかな愛の手が、かろうじて彼らを支えているというわけです。
彼らが全ての愛の手を失ったとき、凶悪犯罪への安全装置は外されます。
周囲からの愛の存否が、彼らの運命を決すると言っていいでしょう。

畠山鈴香被告は、自らの人生を呪っているかのようです。
生まれてきたことを恨んでいるかのようです。
希望の光を見出せないでいます。
彼女が鬼子母神になることはないのでしょうか?