親の愛

子供を愛さない親もいる!


子供にトラブルがあったり、不幸があったりすると、「子供を愛さない親はいない」と語る人がいます。
テレビなどでは、そうコメントする人がしばしば登場します。
本当でしょうか?

全ての親が子供を愛しているということには、どうも疑問を感じてしまいます。
子供を愛していない親も少なくないということです。

もし、本当に全ての親が子供に愛情を持っているなら、虐待の問題が生じることはあり得ないでしょう。
ところが、親による子供への虐待は、年間何万件も報告されています。(→参照
しかも、これは発覚している件数だけです。
氷山の一角と言っていいでしょう。

虐待は、愛とは対極のものであるはずです。
罵声や怒声を浴びせる。脅す。
それどころか、タバコの火を押し付ける、紐で縛って押入れに放り込む、頭を水の中に押し込む、熱湯をかける、何日も食事を与えない、殴る、蹴飛ばす、床にたたきつける、挙げ句の果てに暴行死させる。

このようなことが、愛であるはずがありません。
もし、これも愛であるというなら、愛の定義を変えなければなりません。
愛には、相手を虐待することも含む、と。
愛には、相手を傷つけ、苦しませ、悩ませ、悲しませることも含む、と。

愛とは、相手を守り、支え、理解し、味方すると言うことです。
相手を幸せにすると言うことです。
しばしば、自己犠牲さえ伴います。
親にはそれに、子供を健全に、育てるということも加わるでしょう。

親が、子供を支配し、管理し、抑圧し、干渉し、放置し、放任し、疎外する。
これらも、愛ではありません。溺愛ですら、真の愛ではありません。
これらは愛ではなく、エゴイズムです。
子供より自分を優先させる深層心理から生じたものです。
子供を自分の思い通りにしようとする感情から生まれたものです。

親の育児姿勢の中に、支配、管理、抑圧、干渉、放置、放任、疎外、溺愛などがある場合は、子供に対する真の愛情の欠如を疑ってよいでしょう。

子供は、親の愛に敏感です。
子供は、親の愛が真であるか偽であるかをかぎ取ります。
そして、いくら親が誤魔化しても、それは子供に映し出されるものものです。

親に真の愛情が欠ける場合、子供はいろいろな歪み、乱れ、荒れの症状を見せます。
自己否定、自虐行為、自傷行為、非行、暴力行為、過食症、拒食症、援助交際、家出、犯罪行為などです。
弱者に対するいじめなども、この一種です。
これらは皆、親の愛情の欠如という共通した根を持っています。
真の愛情を受けている子供は、決して弱者を傷つけ、悩ませ、苦しませ、悲しませるような加虐行為を行いません。

このような子供に対し、真の愛情を持っていない親は、全体の半分に達すると考えてよいでしょう。
「子供を愛していない親はいない」というのは、全くの欺瞞というわけです。真っ赤な嘘というわけです。ごまかしというわけです。

真の愛とは、普遍的なものです。
自分の子供しか愛していないと言うのは、真の愛とは言えません。
他の人間は愛さないが、自分の子供だけは愛するというのは、愛ではなくエゴです。
他人に対し、冷たく、薄情で、攻撃的で、暴力的ですらある人間が、自分の子供に対して、真の愛情を持っているはずはありません。

大人の普段の行動を見ても、真の愛を持っている人間がそれほど多くないことは理解できるでしょう。
他人に対して、温かく、優しく、思いやりを持つ大人は、せいぜい半分くらいです。
このことからしても、真の愛情を持つ親は、高々半分程度であるという捉え方に大きな誤りがないことが分かります。

子供に対して愛情を持っていない親はいないという考えほど、現実を大きく見誤らせる考えはありません。
極めて有害な考え方です。危険です。弊害は大です。
親に対し過大評価を与え、親に対し誤った幻想を抱かせてしまいます。

ここから、虐待する親に対する許容的な考えや、甘い対応が生じてしまします。
支配、管理、抑圧、干渉、放置、放任、疎外、溺愛などでさえ、親の愛の一種と見なしてしまうという過ちを犯してしまいます。
被害を受けるのは子供です。
これは将来、不幸や犯罪など社会病理を蔓延させることにも繋がります。

親は、自分が子供に対し真の愛を持っているか、自らを省みることが必要です。
自分が子供に対し真の愛を持っているかどうかは、子供が教えてくれるはずです。
子供を見れば分かるはずです。

子供が、幸せな笑顔を作っていないなら、自分の愛情を疑ってよいでしょう。
親には、常に自分をいましめ、努めることが求められます。
親の真の愛が問われています。