◆現代人にも多くを与える論語の言葉
東西古今の古典には、優れた思想が集積され、凝縮されています。
人類の祖先が遺してくれた偉大なる知恵とも言えます。
それらから私たちが学ぶことは実に多大なものです。
そのうち最も代表的な巨人として、孔子、釈迦、ソクラテス、キリストなどがすぐに想い浮かぶと思います。
彼らは、今から2000~2500ほど前に生きました。キリスト以外ほぼ同時代です。
そして、現代に通ずる思想の大河の源流を用意しました。
※具体的な生年、没年については、次のようになります(不明な場合もある)。
孔子…BC551年‐479年、釈迦…BC5世紀頃、多説、
ソクラテス…BC469年頃~399年、キリスト…BC4年頃~AD28
不思議なことに、彼らは共通して自分の手による著作を遺していません。
(ただし「五経」の一部は孔子の手が加わっていると考えられている)
彼らの弟子、信者による言行録が残るのみです。
孔子のそれは「論語」、釈迦のそれは「経(教典)」、ソクラテスのそれはプラトンの著作(対話編)、キリストのそれは「福音書」の中に納められ、形を留めています。
それは、表現によっても特徴付けられています。
「論語」は「子曰く(先生はおっしゃった)」、「教」は「如是我聞(私はこのように聞いている)」、対話編は「」つき、「福音書」は「イエスは言われた」などとあります。
※ニーチェの「ツァラツストラはこういった」も、この一種の踏襲形でしょう。
だだ、それらの言行録は、たいてい何年も経って作成され、編集されています。
「論語」は孔子の死後50~100年、「教」は釈迦の死の直後~数百年後、「福音書」はキリストの死後数十~百数十年後と考えられています。(「対話編」の多くは死後間もなく)
そのため、その中には真偽の疑わしいものも少なからず混在しているとされています。
それは、記録、聞き語りの限界を示すものです。やむをえません。
従って、これら偉大な先人の言行について、あまり細かな字義の解釈にとらわれない方がいいでしょう。
本旨、本義を読みとればいいわけです。
確かに、いにしえの偉人の遺した言葉は、私たちに多くのことを教え諭してくれます。
今なお多くの人の人生に多大な影響を与え続けています。
とりわけ、日本人にとって論語は身近です。
その教えは、儒教として深く人々の生活の中に浸透してきました。
この原文の文字数は多くありません。
1ページ600字程度の平均的な単行本にして、高々100ページ程度の分量です。
読破にも、それほど多くの時間を要しないでしょう。
私も、「論語」からは、多くを学び与えられています。
その中のいくつかの言葉を、日々の人生の中で常に信条として心に留め、支え、戒めとしています。
そこで、今回は記事の趣向を変えて、それらついて次に簡単に紹介させていただくことにします。
ご参照いただけると有り難く思います。
私のプロフィールを兼ねるかも知れません。
・朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり。
(朝、人生の道理を悟れば、その日の夕べに死んでもかまわない)
・過ちを改めざる、これを過ちという。
(過ちを犯しながら悔い改めない、これを本当の過ちという)
・己の欲せざる所、人に施す事なかれ。
(自分がして欲しくないことは、人にしてはいけない)。
・義を見てせざるは、勇なきなり。
(人の道として必要なことだと知りながら行わないのは、勇気に欠けることである)
・君子は人の美を成す。
(優れた人は、人の美点長所を伸ばす)
・君子は和して同ぜず、小人(下らない人間)は同じて和せず。
(立派な人、優れた人は仲良くしても迎合しない、下らない人間は迎合しても仲良くしない)
・剛毅木訥、仁に近し。
(不屈で飾り気がない人間は、思いやり、慈しみを持つ人間に近い)
・巧言令色、少なし仁。
(口がうまく、うわべをつくろう人間は、思いやりの心が少ない)
・これを知る者は、これを好む者にしかず。これを好む者は、これを楽しむ者にしかず。
(ただ知識のある人は、それを好む人には及ばない。好む人はそれを楽しんでいる人には及ばない)
・小人の過つや、必ずかざる。
(つまらない人間、卑しい人間は、過ちを犯すと、必ず言い訳をする)。
・学びて思はざるは即ち暗し。思いて学ばざるは即ち危うし。
(いろいろ学んでも、考えなければ、真の道理は分からない。いろいろ考えても学ばなければ、誤りをおかしやすい)
・過ぎたるはなお、及ばざるが如し。
(度を過ぎることは、欠けていることと同じである)
・徳あれば孤ならず、必ず隣あり。
(善い心を持っていれば、必ず親しい友や味方ができる)
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