◆特攻隊の責任者は生き延びた!
今日は終戦記念日です。
そこで、特攻隊(特別攻撃隊)のことについて触れたいと思います。
特攻は、敵の艦船などに対し、戦闘機などで体当たりをし、打撃を与えるというものです。
当然、生還の見込みはありません。
6000人近い若者の命が散りました。多くが20歳前後でした。
特攻は、太平洋戦争末期に、敗戦の濃厚な中で、編み出され遂行されました。
この作戦を統括したのは、軍の中枢部です。
彼らの中には、「どうせ通常攻撃でも戦死するなら、特攻で確実に戦果をあげさせ特進の栄誉を与えればよい」というような考えもあったと言われています。
中でもとりわけ、この作戦の発案、提唱し、強力に推進した中心人物として、大西瀧治郎参謀長、黒島亀人参謀、源田実参謀などが有名です。
彼らは戦後どうなったでしょう?どのような生き方をしたでしょう?
大西参謀長は、終戦の翌日に自決をしています。
彼は、終戦を間近にして、「我々は甘かった。本当に甘かった」と述懐しています。
自責の念を抱いていたのでしょう。
黒島亀人参謀は、最後まで、本土決戦を主張し、1億玉砕も唱えました。
しかし、現場の責任者ではなかったため、戦争犯罪には問われませんでした。
戦後、麹町の広大な旧鍋島侯爵邸に住み、哲学、宗教の研究に没頭し、天寿を全うしました。
源田実参謀は、戦後、防衛庁に入庁し、初代航空総隊司令、航空幕僚長を務めました。
1962年、参院選に自由民主党公認で立候補、当選し、政治活動を開始します。
彼は、右翼団体を公然と全面支援するなど、暴力団との癒着も指摘されています。
彼は、自分の航空機操縦のレベルの高さを誇っていました。
彼は、乗員保護の装備に対しては「腰抜けどもを増やすだけだ」とはねつけていました。
しかし、彼にはパイロットとしての実戦経験は皆無でした。
彼は、勲二等旭日重光賞を受けています。
84歳で天寿を全うしました。
多くの戦争責任者、戦争指導者の中には、黒島参謀や源田参謀のように、戦争後も生き延び、華やかな人生を全うする人が少なくありません。
若き特攻隊の短い人生とは、余りの違いです。
若くして散った特攻隊員は、天上からこれを眺めたら、どう思うでしょう?
特攻隊員が自分だったら、どう思うでしょう?
隊員の親や家族、妻や恋人は、源田参謀などの生き方を間近にしたら、どのような感慨を持つでしょう?
自爆テロを主導し命じている人たちも、自分の野望が達成されたり、テロが無用になれば、何もなかったかのように、人生を享受することでしょう。
爆弾を抱えて散った部下たちのことは、すっかり忘れ去るでしょう。
供養さえしないでしょう。
戦争の指導者や、主戦論者たちは、常にそういうものであるということは、理解しておいた方がよさそうです。
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