◆単純化する若者言葉
言葉は生き物です。
時代によって絶えず動いていきます。変わっていきます。
江戸時代の言葉と、現在の言葉は異なるし、平安時代の言葉はさらに大きく異なるし、
縄文時代の言葉は全く違う可能性があります。
さらに、民族によっては、それ以上に大きく異なることがしばしばです。
全く通じない場合も、少なくありません。
たとえば、日本語と英語のようにです。
同じ民族によってさえも、地域によっても大きく異なります。いわゆる方言です。
沖縄の人々にとって、東北弁は難解でしょう。意味不明ですらあります。
言葉には、数学のように、一定不変の真理のようなものはありません。
1+1=2に限らず、1+1=1であったり、1+1=3であったり、1+1=5であったりするようなところがあります。
だから、言葉には、本来、正しいとか正しくないかとか言う区分はありません。
多数決によって決まるだけです。
多数派が使っている言葉遣いが正しいと言うことになります。
言葉は、生き物のように、時代時代、地域地域によって変化していきます。
現代では、言葉の変化はさらに急激のようです。
特徴的なことは、言葉が短縮化、単純化していると言うことです。
若者たちに好んで使われる「ウザイ」、「キモイ」などその典型です。
「ウザイ」は「うざったい」の短縮形、「キモイ」は「気持ちが悪い」の短縮形です。
「空気(周りの雰囲気)が読めない」ことをローマ字にしたときの頭文字を使って、KYとさえ言うそうです。
こうなるともう、言葉というより記号的な隠語です。
言葉の収斂、単純化も顕著です。
「チョー」という後がその典型です。漢字の「超」のことです。
若者たちを中心に、頻繁に使われるようになりました。
「チョー感動した」のように使われます。
かつては、強く感動した気持ちを表すときは、次のようないろいろな表現の仕方がありました。
「とても感動した」「非常に感動した」「大変感動した」「本当に感動した」「実に感動した」「誠に感動した」「大いに感動した」「深く感動した」「極めて感動した」「この上なく感動した」「とてつもなく感動した」「限りなく感動した」など、多様な言葉の中から選んで表現しました。
そこにはニュアンスがあり、微妙な心模様を反映していました。
しかし、今では「チョー感動した」の一語で足りてしまいます。
便利で、簡単なことは確かです。
言葉を選ぶ面倒も、考える手間も、多くの言葉を知っておく労力も要りません。
実に楽でいいかも知れません。
しかし、このような大きな流れは、若者そして多くの人たちの思考を短絡化、単純化させ、言語生活を貧困にしないでしょうか。
憂慮を感じることも確かです。
新約聖書には、「始めに言葉ありき」(ヨハネ伝)とあります。
これは、「言葉は、即ち神である」ということを意味しています。
そのくらい、言葉は大事なものなのです。
人間の人間たるゆえんを証するものです。
言葉の劣化は、アイデンティティや資質の退化に繋がらないとも限りません。
少なくとも言葉を大切にしなければならないことだけは確かです。
0 件のコメント:
コメントを投稿