◆福祉は、なぜ喰い物にされるのか?
福祉を喰い物にする事件が目立ちます。目立ちすぎます。
このごろは、福祉というと、すぐに喰い物というイメージが浮かんでくるほどです。
利権の巣、温床になっているということです。
また、典型的な事件が発生しました。
厚生労働省九州厚生局の松嶋賢前局長(59)が、大阪府枚方市の社会福祉法人の山西悦郎(80)前理事長から多額の金品を受け取っていた事件です。
自宅の購入、自宅の改修、高級車の譲渡などで、数千万円の便宜を受けていたというものです。
松嶋前局長はなぜ、これほどの便益を社会福祉法人の前理事長から受けられたのでしょう。
ただで、人に金品をやるわけはありません。
そんな仏様のような人は、世の中にまずいません。
お金については、親子、兄弟、夫婦の間でも厳しいものです。
ましてや遠戚に過ぎません。
無償のプレゼントなどあり得ないでしょう。
もちろん、前理事長も仏様のような人ではありませんでした。
そんなことをしていれば、彼は清貧に甘んじていなければならなかったはずです。
彼は非常に富裕な資産家でした。
彼の利益供与は、ごく一部の関係者だけに限られていたはずです。
その最大の相手が松嶋前局長でした。
前理事長が経営、運営していた社会福祉法人には、計10億5千万円ほどの補助金が与えられています。
補助金は、国民の納める税金が原資になります。
加えて、同社会福祉法人には、松嶋前局長の出身母体の独立行政法人から総額33億円以上の融資も行われていました(中日新聞、8月31日夕刊)。
数十億円の便益を得られるなら、数千万千の負担は軽いでしょう。
見返りは、10倍以上です。
ここに、今回の醜聞を解くカギがあります。
即ち、とてつもない便益供与を受けたから、見返りに金品を与えたと言うことです。
また、とてつもない便益供与を受けるために、工作として金品を与えたと言うことです。
松嶋前局長は、それができる立場にありました。
両者は、親戚関係だから、便益供与が許されるというような抗弁をしています。
しかし、それならまさに悪しきクローニー(縁故主義)です。
クローニーは、大きく腐敗の道をたどるのが常です。
いずれにせよ、税金や資金の私物化です。システムの悪用です。
税金も資金も、有限なはずです。
片方が多くの分け前、取り分(利益)を得れば、他方の分け前、取り分は必ず少なくなります。
仮に、流動性(現金)供給を多くしても、価格が上昇するから同じことです。
確かに、一カ所の流用や無駄遣いの金額が多額でも、国民全体に分散すれば、一人当たりの負担はわずかです。
そこで、権力者たちは、しばしばこの構造を利用してきました。
薄く広く集める、と言うことです。
国民が実感として気づきにくいと言うことを逆手に取っているわけです。
批難、攻撃を免れやすくなります。
しかし、流用や無駄な使い方が、国民にとってマイナスであることに変わりはありません。
「ちりも積もれば、山となる」です。
このような事例が、数百件も重なれば、国民一人当たりの逸失利益は一人当たり万単位になります。
国民に対するサービスが減るか、税負担が増えるか、そのどちらか、または両方にならざるを得ません。
前理事長は、自分が新しい高級車を買うときに数回ほど、500万円を超えるような高級車を「もう乗らないから(いらない)」と言って、松嶋前局長に与えていたということです。
何とも太っ腹のことです。
松嶋前局長は、「(前理事長は)年収が億単位で、我々とは金銭感覚が違い、新しい車を買えば古い車はもういらない、という人」と語っています(朝日新聞9月1日朝刊)。
松嶋前局長も、独立行政法人福祉医療機構を退職したときの退職金は、4千万円近いと言われています。
庶民感覚とは、相当にずれています。かけ離れています。
庶民の生活感は、理解できないでしょう。
もちろん、理解する気持ちもないでしょうが…。
彼の人生の基盤、営為の立脚地が福祉であったことは、非常に割り切れない気持ちがあります。
とても残念です。
彼は、主に児童福祉施設と特別養護老人ホームを経営、運営していました
彼の枚方療育園などには、重い病と戦う子供を中心とする多くの重度障害者がいました。
施設の現場には、毎日毎日、苦労を厭わず、汗を流し、懸命に働く多くの介護者や従業員がいました。
彼らは決して、裕福な人ではありません。
むしろ、つましい人々でしょう。
月収数十万円で、一生懸命に障害者や介護老人を支え、施設を守ってきました。
前理事長や前局長は、彼らをどのような眼差しで見ていたのでしょう。
まさか「お前たちは無能だから、そのくらいの報酬で十分だ」という意識はなかっと思いますが…。
しかし、残念ながら、彼らの生活ややってきたことからは、温かさや優しさは感じ取れません。
そういう人たちが福祉や福祉行政のトップにあることはとても残念なことです。
国民にとっても、不幸なことです。
いつ自分、あるいは家族が、福祉の恩恵を受けなければならなくなるか分からないからです。
自分が贅沢をし、豪勢な生活を享受するなら、その前に障害者や介護老人へのサービスをより充実させたり、現場で汗を流す人たちに手当てをもっと厚くするなどの使い道はあったはずです。
福祉といえば、献身、自己犠牲、愛などの美しいイメージがあります。
しかし、それは本物の福祉、真の福祉について言えることです。
にせ物の福祉、偽りの福祉は、汚れて、醜く、卑しいものでしょう。
弱者や勤労者を踏み台にするということは、天に唾することでもあります。
彼らに、福祉を先頭に立って担っているという気概や誇りはなかったのでしょうか?
テレビでは高級品を身に付けて豪華な椅子にふんぞり返っている姿が映し出されました。
確かに、法の範囲なら何が悪いのだ、という反論はあるでしょう。
しかし、法だけが全てではありません。
人間には、気高さや誇りというものがあるはずです。
「武士は喰うわねど高楊枝」と言いました。
それはまさに、人間としての矜持(プライド)を示しています。
そこには、日本人の掛け替えのない美質がありました。
日本人は、それを失ってしまったのでしょうか?
彼らにそこまでは期待しはしませんが、節度というものはあるでしょう。
社会や組織のトップにある者ほど、それを人々に示すべきです。
彼らは、これから社会を担う子供の模範であるばかりか、しばしば理想、目的ともされるのですから、当然です。
福祉が、善良な人々を欺き、喰い物にされることがないよう注視していなければなりません。
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