人生学

権力欲は、他人を害することによって達成される。
権力欲が、なぜ悪であるかと言えば、それが他者を不幸にしたり、他者の人権を侵害するからである。
権力への飽くなき追求は、多くの人間に害悪を及ぼしながら達成されていく。
         *
最も価値ある能力の一つは、他者の意見を聞き、それに対して自己を変えられる能力である。
         *
人々が不必要に高額な物を買うのは、たいてい虚栄心を満たすためである。
周りに人がいない場所では、そのような行動はしないだろう。
         *
高価なものを身に付けても、自分の価値が高まるわけではない。
高価なものを身からはずせば、また元に戻る。
         *
中庸であることは難しいが、それが幸福や健康をもたらすこともまた確かである。
よく遊ぶが、遊び過ぎないこと、よく働くが、働き過ぎないこと、よく食べるが、食べ過ぎないこと、よく寝るが、寝過ぎないこと、よく恋するが、恋しすぎないこと。
それが、幸福や健康をもたらす。
         *
いじめは、社会の至る所にある。
いじめは、学校、家庭、職場、地域社会、国際社会など、至る所にある。
いじめをなくすには、それらをあぶり出すことがまず必要だ。
         *
いじめには、いろいろな人間によるいじめがある。
いじめには、親、友達、教師、上司、民族、国家権力など、いろいろな人間によるいじめがある。
邪悪な強者は全て、加虐者になる可能性がある。
         *
いじめは、強い者から弱い者に、連鎖となって伝わって行く。
そして、誰がいつ、この連鎖の中に巻き込まれるかわからない。
誰にも、自分より強い者は必ずいるからだ。
         *
育ちが悪いとは、まともな愛情を受けて育っていないことを言う。
愛情を受けられなかったり溺愛された子供は、育ちが悪いと言うことになる。
         *
愛情のない親は、愛情のない人間を産み育てる。
ヒステリックな人間は、ヒステリックな人間を産み育てる。
暴力的な人間は、暴力的な人間を産み育てる。
邪悪な人間は、邪悪な人間を産み育てる。
         *
どんなにすぐれた偉人、哲人が輩出したところで、人類の知性や精神が高まることはない。
数千年も前から、人類は、シャカ、キリスト、ソクラテス、孔子、カントをはじめ、多くの偉人、哲人を輩出してきた。
しかし、人類の理性や精神が高まったという徴候はどこにもない。
いまだに、人類は争いを繰り返し、社会には差別や悪行がはびこっている。
         *
人間の肥大した物欲、名誉欲、権力欲の前には、どんな高邁な思想や宗教も無力である。
人間の現実は、絶えず高邁な思想や哲学の理念を裏切っている。
         *
哲学書、思想書などは、たいてい、内容自体よりも、その文章自体が難解である。
そのため、役に立つ哲学書や思想書も、ごく一握りの、知的特権階級の占有物になっている。
         *
文章が難解である理由は、筆者や訳者の読者に対する配慮が欠けているか、あるいは彼らの表現能力が不十分なためである。
これらが全てクリアーされれば、難解とされる思想や哲学も、格段に広範な人々に支持されることになるだろう。
         *
人間の価値は、生命としては平等であるが、社会的な価値には大きな差がある。
残虐な暴行殺人犯と、献身的な人道的活動家が、人々にとって等しい価値を持つはずがない。
人間の社会的な価値は、どのくらい他人の幸福に貢献するか、あるいは不幸に加担するかの程度で決まる。
人々にどのくらいの恩恵をもたらすか、あるいは害悪をもたらすかで決まる。
         *
大きな音は、発する者にとっては快感となるが、聞く者にとっては不快の種となる。
大きな音は、暴力的な要素を持っている。
大きな音は、発する方にとっては、憂さ晴らし同じような快感を与えるが、聞く方にとっては、暴力されると同じような苦痛をもたらす。
改造マフラーを付けて街中を走り回る自動車やオートバイの轟音も、図書館内に響く大きな話し声も、公害と同じような害悪を周りの人々に与える。
         *

女の可愛さは、容貌や性質とは密接に関係するが、学力や能力とはほとんど関係しない。
学力や能力は魅力の構成要素ではあっても、可愛さとはほとんど関係がない。
         *

テレビは、学校以上に子供たちに大きな影響を与える。

学校や教師が子供たちに与える精神的影響など、たかがしれている。
子供たちは、教師の真似をしなくても、テレビのキャラクターの真似はする。
教師を尊敬しなくても、タレントは尊敬する。
テレビは、子供たちの心や行動に対し重大な責任を持っている。
         *
権力欲や名声欲は、社会的な自己の拡大を望む本能的欲求である。
子孫繁栄は、個別的な自己の拡大を望む本能的欲求である。
         *
損害賠償額は、被害者の立場に立って決められるべきである。
公害裁判の被告や裁判官は、自分や自分の愛する家族が公害によって被害を受けたら、どのくらいの金銭的な償いがなければ納得できないか考えて、賠償額を算定すべきである。
他人事と考えれば、どうしても判決は甘くなる。
もし、自分が被害者ならば、一億円の賠償を請求するが、他人が被害者の場合は百万円の賠償で十分と考えたら、それはこの上なく不当な差別だ。
         *
毛皮を購入することが、毛皮の乱獲を招く。
毛皮製品を購入することは、毛皮商人を利する。
毛皮商人を利することは、毛皮の乱獲を促すことになる。
毛皮を身にまとっている人間は、毛皮動物の乱獲の片棒を担いでいるということになる。
毛皮動物の乱獲に、少しでも異を唱える人や動物愛護者は、まず自らが、毛皮類を一切身にまとわない、という覚悟が必要だ。
自分だけは例外的に許される、と考えてはならない。
         *
勝つことを第一とするというのは、優越感や名声や金銭的利得を重要視とするということである。
従って、勝利第一主義は、優越感や名声、金銭的利得に対する執着を助長し、排他的な利己心を育てる。
プロスポーツを除き、スポーツは勝つこと以上に健康や楽しむことを重視すべきである。
         *
やらないからできない、という人は、やってもできない。
やらないからできなかったというのは、言い訳に過ぎない。
そういう人は、たいていやってもできない。
         *
教師が苦労しないと、生徒が苦労する。
教師が怠慢であると、生徒が不利益を被る。
         *
偏差値の高い生徒に、利己主義的な競争心を植え付けるのは、社会的な弊害が大きい。
現在の社会では、たいてい偏差値の高い生徒が、企業や社会のリーダーになる。
利己的な競争心を植えつけられた彼らが、企業や集団や社会の指導者になったとき、企業や集団や社会は、弱肉強食の論理を持った利己主義的な傾向をより強めることになる。
         *
邪心のなさにおいて、人間は犬に劣る。
犬は、飼い主に対して、無心に喜びを表し、全身全霊で飼い主に対する信頼と愛情を示す。 この素直さと純真さにおいて、人間は犬に及ばない。
その純粋さを逆手にとって、犬に対し横暴に振る舞う人間は、犬より劣る。
         *
再犯を許した責任は、弁護士や裁判官にもある。
再犯者は、再び罪を犯す自由を与えられることによって罪を犯す。
彼らに、その自由を与えたのは、弁護士や裁判官である。
彼らが、再犯による被害者や犠牲者に対して、責任がないとされることには問題がある。
         *
親は子供に対して、物質的財産を与えるのではなく、生きる知恵や生きる力を与えるべきである。
物質的財産は、子供の幸福を保障しない。場合によっては、不幸の種ともなりかねない。
しかし、生きる知恵や生きる力は、子供の幸せのために大きく役立つ。
         *
政治家と国民のレベルは、連動する。
民主主義においては、民衆が自らの判断力と責任で政治家を選ぶからである。
政治家がくだらないというならば、まずもって民衆自身がくだらないと言うことである。
         *
悪徳政治家を生むのは、他ならぬ選挙民自身である。
多くの政治家自身に、飽くなき権力欲や金銭欲や虚栄心があり、それが手段を選ばぬ贈収賄などの経済的犯罪を引き起こす。
一方、選挙民の心の中にも、政治権力のおこぼれをもらって、自己の利益拡大を図ろうとする意識がある。そこに、悪徳政治家が生まれる土壌がある。
民衆一人一人のレベルでは、影響の少ない小悪でも、政治権力レベルにおいては巨悪となる。
選挙民は、悪徳政治家と同質の心根が、自己の心の中に潜んでいないか十分に省みるべきである。
         *
悪徳政治家の再選を許すのも選挙民だ。
政治家個人に対し、限られた情報しか得られない選挙民にとって、初回の選挙で劣悪な悪政治家に投票してしまうのはやむを得ない。
しかし、一度不祥事が露見した政治家が再選されるとしたら、それはまさに選挙民自身の責任である。
         *
頑張れば必ずできる、というのは、慰めに過ぎない。
それは、スポーツの才能がない人間に、頑張れば必ずオリンピックに出られる、と煽るのと同じである。その言葉が現実化するのは、何千何万分の一人だ。
人に夢を持たすのはよいが、過大な幻想を抱かせるのはよくない。
自己に対する評価が肥大化すれば、失敗したときの挫折は大きいし、成功したときには、過剰な優越感を抱かせる。
頑張ればできるかもしれない、と言うのが正しい。
         *
人間は、その持っている能力範囲内でしか伸びない。
身長で言えば、誰もが百八十cmになるわけではない。それは、それを可能にするだけの成長ホルモンを持ったものだけが達成できる。
成長ホルモンを持っていないものが、いくらたくさん食べても、身体を引っ張っても、神の与えた範囲でしか伸びない。
勉強、スポーツ、音楽、芸術、その他のことにおいても、個々人に神の与えた限界という者がある。
それを人間が無理をしても空回りするだけで、そのうち肉体も精神も傷ませ病ませてしまう。
         *
勝っても威張らない。負けてもくじけない。
         *
楽な人生などない。
あるとすれば、それは不誠実な人生か、怠惰な人生である。
         *
必要とする物資が、生物の命を奪わないでも得られるなら、生き物を殺すべきではない。
化繊のコートが容易に入手できるのに、毛皮のコートを手に入れるため、豊かな毛で覆われる動物たちを殺すべきではない。
         *
相手を変えようと思うなら、まず自分を変えよ。
相手を変えることは、ほとんど不可能である。
まず間違いなく、失敗する。場合によっては、さらに状況を悪くする。
しかし、自分を変えることは、意志さえあればできる。
         *
人間の価値には、経済的価値と精神的価値の二つがある。
経済的価値は、その人間の利用価値であり、その人間の使用価値である。
つまり、経済生活において、その人間が金銭的な価値を生む利用価値である。
これは数量に表すことができる。
一方、精神的価値は、他の人間の精神的支えになる価値である。
他の人間に喜び、自信、勇気、希望、知恵を与える価値である。
これは数量では表せない。
         *
刑罰は、重いほど犯罪の抑止力になる。
ゴミを捨てた行為に対し、相当の罰金を科せる場合と、全く罰則を科せない場合では、前者の方がゴミを捨てるという悪徳行為を押さえることができる。
スピード違反に対し、一万円の罰金を科せた場合と、十万円の罰金を科せた場合とでは、後者の方が違反行為を減らせることができる。
強盗に対して、一年の懲役を科せたときと、五年の懲役を科せたときでは、後者の方が犯罪行為を押さえることができる。
外国人が日本で犯罪を犯す大きな理由の一つに、日本の刑罰が軽いということがある。
         *
不徳者の心を変え、悪人を善人に変えるのは、神でも無理だ。
今まで歴史上に現われたあらゆる思想、宗教、あるいは英雄、哲人、偉人でも、地上から悪徳や罪行をなくすことには、ほとんど無力であった。
今まで人間の前に現れた、神様たちさえも無力であった。
今まで、多くの偉人、哲人、神様が現れたが、人間の社会から、悪徳も罪行も、一向になくなる気配を見せない。
         *
子供を命がけで守れるのは、親しかいない。
親が命がけで守れなければ、子供を守れる者はほとんどいない。
         *
親が命懸けにならなければ、子供をいじめから守ることはできない。
親が少しでも保身を考えたら、いじめから子供を守ることはできない。
         *
いじめられっ子が、親を責めるのには理由がある。
いじめられっ子は、自分に非があるわけでも、悪徳を行なっているわけでもない。ただいじめやすいからという理由だけでいじめられる。
彼は毎日毎日、自尊心がずたずたにされる屈辱と悲哀、肉体が痛みつけられる苦痛を味合わなければならない。彼はまさに、この世の地獄に耐えなければならない。
それなのに、親は自分を守りきらない。放置したり、時には背を向ける。
彼は腕力が弱く生まれた不遇を呪い、軟弱に育てられた運命を恨む。
彼らが、「何で俺を生んだのだ」と親を責める理由には、そういう背景がある。
         *
話のうまい人間より、話を聞くことのうまい人間の方が、はるかに魅力がある。
話のうまいだけの人間は、時として不快であり、反発すら抱く。
しかし、話を聞くことのうまい人間には、好感を抱き、敬意すら感じる。
         *
話のうまい人間は多くいるが、話を聞くことのうまい人間はめったにいない。
話のうまい人間はどこにでもいるが、話を聞くことのうまい人間に出会うことはかなり難しい。
         *
話上手であることにたいした能力はいらないが、聞き上手であることには優れた能力がいる。
         *
話上手な人間には悪人もいるが、聞き上手な人間に悪人はめったにいない。
話のうまい人間の中には、しばしば詐欺師が混じっている。
         *
人間には、平等に賛成する人と、平等に反対する人の二種類がある。
この両者は、人生観、価値観の根底から異なるので、両者が折り合うと言うことはない。
この両者の思想は相容れず、両者が、パートナーとなり同志となることはまずあり得ない。
         *
勇気のない人ほど、戦争になると勇ましくなる。
戦争では、権力守られて粗暴な行動が許されるからである。
彼らは、虎の威を借る狐となる。
ただし、これは自分たちが相手より優位にあり、自分たちの身は安全にしておいて、相手を傷み付けられる場合に限られる。
        *
大人のギャンブルは、子供にとってマイナスの教育となる。
大人がやっていることを、子供はそのまま受け入れる。
大人がギャンブルをやっていれば、子供たちは、それを善として受け入れる。
お金を賭けること、あぶく銭を手に入れること、そして努力より運を重視することを、何の抵抗も罪悪感もなく子供は受け入れる。
子供たちにとっては、違法賭博と公営ギャンブルの区別はつかない。
         *
宇宙の法則それ自体が、神の意志である。
         *
死後の世界は、生まれる前の世界と同じである。
生まれる前の世界が無であったように、死後の世界も無である。
生まれる前の世界が想起できないように、死後の世界も想起できない。
死後の世界をあれこれ心配しても意味がない。
それは、生まれる前の世界をあれこれ詮索しても意味がないのと同じである。
         *
自分の来世は自分の子供であり、自分の前世は自分の親である。
来世は死後の世界でなく、自分の子供であり、前世は産まれる前の世界ではなく、自分の親である。
自分の命の次のステップは、天国にあるのでも地獄にあるのでも、また他の生物個体の中にあるのでもなく、次の生命自体の中にしかない。
         *
親が卑属で、子供が尊属である。
法律用語では、親が尊属で、子供が卑属である。
しかし、種の繁栄の原理から言えば、親よりも子供の方に重心を置くのが自然だ。
種の存続繁栄のためには、親より子供の方に生きることへの優先権があるからだ。
         *
尊属殺人という用語は、むしろ子殺しに対してこそ当てはまる。
動物の親は、自らの生命を子孫に託すため、時として自らの命を子供のために犠牲にする。 動物の中で、親が自らの生存のために、子供を犠牲にするというものはいない。
ところが、人間の場合、親の立場とか虚栄とかという不純物が交じり込む。
また歴史的には、親が家長としての権力を守り、自らの子供を支配下におくために、子供を卑属とした長い経緯がある。
人類が未来への存続を希求し、子供がその願いを託す唯一の存在であるならば、子供を尊属とすることは理に叶っている。
         *



0 件のコメント: