若者の無差別殺人・2

彼らの心を壊したものは?


前回に引き続き、連続して起きた無差別殺人を犯した2人青年の心の闇に迫ります。

2つの事件で共通している犯人の心理は、自暴自棄、絶望だと冒頭で述べました。
二人は、社会的な居場所、職場や学校などに恵まれていず、無職であったことも共通しています。

土浦市の事件の金川容疑者は、次のように語っています。
「死刑になりたい」、「複数殺せば死刑になると思った」、「反省はしていない。悪いとも思っていない」。

一方、線路突き落とし事件の少年の供述は、次のようなものでした。
「人を殺せば刑務所に行ける。誰でもよかった」。
何という自己否定でしょう。二人は将来を全く閉ざしてしまっています。

彼らの絶望の刃は、自分ではなく、他人を抹殺すると言う方向に向けられてしまいました。
彼らは、全く無関係で無辜な他者を巻き添えにし、生け贄にしてしまいました。
そこには、癒しようのない怒りと、憎しみと、恨みがどす黒い渦を巻いていました。

金川容疑者は、その負のエネルギーを充満させる原因は、彼の家庭にあったようです。
彼は、次のように語っています。
「家族の会話はなく、一緒に食事もしなかった」。
母親以外については、「互いの携帯電話の番号も知らなかった」。

彼には、弟が一人、妹が二人いましたが、兄弟仲も良くありませんでした。
「妹に不満があった。殺すつもりだったが、いなかったのでやめた」とも語っています。
家庭の中は、バラバラであったと言うことでしょう
ある捜査関係者は、「家族関係は本当に希薄だった」と述べています。

夫婦仲も良くなかったと考えられます。
表面上はどうであれ、冷え切っていたのはなかったのでしょうか。
彼らの息子である容疑者の激越な暴力性向を考えると、夫婦間の暴力さえ疑われます。

さらに、妹に対し殺意を抱いていたということは、兄弟差別があったことが推測されます。
妹は、親の贔屓をいいことに、長兄に対し、攻撃的、侮蔑的な言動を繰り返していたのかも知れません。
そうでもなければ、妹に強い殺意を抱くことは考えにくいからです。

親の容疑者に対する真の愛情不足、長い間の殺伐とした家族関係が、彼の心の闇を深化させていったのでしょう。
家族は誰も、容疑者にとって支えにも、救いにもならなかったということです。

一方、線路突き落とし事件の若者の心を破壊した主因はいじめにあったようです。
彼は、小・中学校時代を中心に、陰湿、時には壮絶ないじめを受けていました。

彼は、小学生の時は、仲間から「デブ」、「鼻から牛乳」などのあだ名で呼ばれていました。
体育の授業後は、汗のにおいを「くさい」、「半径2メートル以内に近づけない」などと、はやしたてられました。
中学でもイジメられ、無視されたり、机やイスを投げつけられたりしていました。
体に青あざができていることもあったそうです。

このような心無い加虐が、少年の心を破壊していったことは想像に難くありません。
つまり、それが、彼に激しく根深い怒り、憎しみ、恨みのエネルギーを蓄積させていったというわけです。
最終的に、級友たちの仕打ちが彼を殺人犯に追い込んでいきました。

いじめは、ほとんど全ての凶悪犯罪の土台を用意します。
暴力的な犯罪における極めて共通性の高い要因です。

いじめの加害者は、あらゆる凶悪犯罪の影の主犯を為しているということです。
彼らこそが直接の犯罪者を作り、産み出しています。
そこを正確に捉えなければなりません。

彼らが手錠をはめられることも、壁の中に閉じこめられることもありません。
いじめの加害者は、何の罪も咎も負いません。
彼らは、良心の呵責も、罪責の念もありません。
今回、假谷さんを殺してしまった少年に対し、影でほくそ笑み、嘲笑しているだけでしょう。

しかし、いじめの加害者は、直接の犯罪者に勝るとも劣らず悪質であり、罪責性を有しています。
いじめは、屈辱、恥辱、痛み、苦しみ、悲しみで人の心を荒廃させます。
そして、怒り、憎しみ、恨みを植え付け、根深いトラウマを与えます。
無差別の凶悪犯罪には、その報復、代償行為であるという側面があります。
ただ、その生け贄になるのは、大抵何の関係もない第三者であり、弱者です。

いじめる卑しく粗暴な人間が学校に、社会に野放しになっている限り、必ずこのような事件は今後も続発していくことは間違いありません。
その犠牲者は、あなたかも知れないし、あなたの家族かも知れないし、あなたの子孫かも知れません。
それをはっきりと認識すべきです。

18歳の少年は、父親に対して親しみの感情を抱いていたようです。
しかし、親に対して本当の愛情を抱いていたのかは疑問です。
もし、親を思う気持ちがあったなら、息子である自分が殺人を犯すことにより、親にどれほどの痛み、苦しみを与えることになるか思いを致すからです。
凶行を思いとどまるでしょう。

子供が親に対して、真の愛情を欠いていたということは、親も子供に対する愛情に問題があったと言うことを意味しています。
親が子供に対し、本当の愛情を抱いていたならば、子供にも親に対するまともな愛情が育っていたでしょう。

それは、自分の大切な子供がいじめから守れなかったということに端的に表れています。
自分の息子の最大の苦境に対し、どこか引けたところがあります。
自己犠牲を避けたような印象があります。
保身の気持ち、面倒な気持ちがあったのかも知れません。
それでなければ、10年近くもいじめを受け続けるわけがありません。

もし、父親が体を張って、いじめから息子を守っていたなら、容疑者は親に対し心からの信頼と敬愛の念を抱いたでしょう。
そうすれば、今回の事件は起きなかったに違いありません。
いじめでは、いかに親のあり方、出方が重要かということです。

少年は、経済的理由で、大学に進学できないということにも、大きな絶望的な気持ちを抱えていました。
それが事件のトリガー(引き金)になった可能性は確かに否定できません。

しかし、同じような逆境の若者はいくらでもいます。
しかも、それを打開する方法も、いくらでもあります。
家から通える距離の大学ならば、アルバイトをし、奨学金を利用すれば、親の負担に頼らず大学に進学することは十分可能です。

幸い、父親も母親も、健康で働いているようです。
親が子供の収入に頼らなくて生活ができる状態ならば、大学で学ぶ道は必ず開けていたはずです。

それを、学校の教師や親は、いろいろ親身になって具体的に示したのでしょうか?
それを怠ることはなかったでしょうか?
もしそうならば、実に悔やまれます。

いずれにせよ、二人の若者は胸の内に激しい怒り、憎しみ、恨みを煮えたぎらせていました。
そして、人生に絶望していました。
ただ、彼らはその負の巨大なエネルギーを自分ではなく、他者の存在否定に向けてしまいました。

このような人々に対し、法律の厳罰化は意味がありません。
極限の自暴自棄で満ちた人間に死罪は意味を持ちません。
もともと、自殺願望が強いからです。

二人の若者は、これから半世紀以上もある人生を大きく暗転させてしまいました。
自らを煉獄の中に突き落としてしまいました。
そして、被害者の子供、妻、親などにも、生涯癒えることのない深い悲しみ、痛み、苦しみを与えてしまいました。
このような不幸な若者や被害者が現れることのない社会を築くためにはどうすべきか、全ての人に問われています。