反捕鯨テロ

反捕鯨活動家の真の目的は何か?

米国の環境保護団体「シー・シェパード」の活動家2人が先週1月15日、南極海を航行中の日本の調査捕鯨船「第2勇新丸」に侵入するという事件が起きました。

「シー・シェパード」は、反捕鯨を中心に過激な活動を行うNPO(非営利団体)です。
今までも、捕鯨船に発砲をしたり、船舶で体当たりするなどの違法行為を繰り返しています。
捕鯨船の爆破まで行っています。(→参照

今回、活動家たちは、日本船のスクリューにワイヤーロープを絡ませようとしたり、発煙筒や化学薬品の入った瓶を日本船に投げ込んだり、また日本船に乗り込んだりしました。
1月18日には、「第3勇新丸」も、酪酸入りのビンを10本ほど投げつけられています。

実に危険極まりない行為です。海賊行為とも呼べるものです。合法性はありません。
マスコミには、活動家たちを「テロリスト」、「環境テロ団体」と難ずる言葉まで飛び交いました。
人命に関わる行為である以上、決して誇張とは言えません。

本当に彼らはまともな環境団体、自然保護団体なのでしょうか?
自然を大切にし、人々を守という崇高な目的の下に、誠実に努力を重ねる人々なのでしょうか?
どうも、疑念が生じてしまいます。

そこで、彼らにはどのような心理的な動因、あるいは裏事情があるのか、推し測ってみたいと思います。
3点にまとめて並べてみることにしました。次のようになります。

1.ストレス発散行為である。
一言でいえば、憂さ晴らしということです。
フラストレーション(欲求不満)の解消です。

攻撃行動、破壊行動には、しばしが支配、抑圧を受けてきた人が中核となります。
例えば、暴動などが起こると、それに便乗して、彼らは激しい報復行為を行います。
これは、毎日のように起きている世界の暴動や反乱、内戦の中に吹き荒れる暴力に目をやれば容易に理解できるでしょう。

ストレスやフラストレーションを蓄積させていた人は、きっかけさえあれば、一気に憂さ晴らしという代償行為に走ります。
彼らは、それまで充満していた悪性のストレスやフラストレーションを爆発させて発散します。
怒りや憎しみは、攻撃、暴力への強い情念、エネルギーとなって帳尻を合わせられるのです。

これは、人生の過去、現在においていじめられ、いじめられてきた人々にも共通しています。
また、劣等感に苛まされている人々にも通底しています。

ただ、彼らは大義に名を借ります。
粗暴な心無い自分の行為は、卑しく醜いと言うことを自覚しています。
そして、非難されたり、けなされたり、軽侮されることを恐れます。

そこで、単なる暴力行為と差別をつけようとするのです。
そのため、錦の御旗を掲げます。

2.売名行為である。
彼らは、英雄主義に駆られているのかも知れません。
自尊心と自意識過剰に押し上げられた売名行為です。
目立ちたがり屋、粋がり屋ということです。
彼らは、「跳ね上がり分子」、「極左冒険主義」などと揶揄されることもあります。

彼らは、自分が特別なことをして、注目を浴びているということに対し、自己陶酔に浸っているのです。
根拠なき自己満足と自己肥大です。
卑しいナルシシズムとも言えるでしょう。
この裏には、根深い劣等感が潜んでいることも少なくありません。

彼らは、過激で危険な違法行為でマスコミに登場することによって、人々の注目を得ようとします。
しかし、それは単にセンセーショナルなだけであって、彼らが人々から賞賛、敬意、信頼などを得られることはありません。

ただ通常、彼らはそれに気付いていません。
また、それに気付くほどの謙虚さや、聡明さを有していません。
もし、そうでなければ、卑しい暴力的な売名行為などしないでしょう。

3.欲得が絡んでいる。
彼らの行為の裏には、利害損得が絡んでいるということです。
金銭的な利益や権益です。
つまり、純粋に高邁な理想や目的を実現するために努力、活動をしているのではないということです。
不純な動機に基づいているということです。

例えば、暴力的な脅しをかけることによって、金銭的な供与を引き出します。
あるいは、暴力的な攻撃を手控えるという見返りに金品を強要します。
いわば恐喝です。
ヤクザ者がしばしば利用する手です。
たいてい裏取引が用いられます。

「愛~」、「救~」、「解放~」など美しい言葉で飾られている団体に、時折そのような阿漕な悪徳が潜んでいることがあります。
彼らにとって、団体名の美称は隠れ蓑です。
それは、多くの善良な人々を騙し、裏切ります。

ただ、今回の場合は、表立った行動であり、攻撃対象が日本の公的な調査捕鯨船であったことから、上記のような背景はまずないでしょう。

従って、利害得失が絡むとすれば、動因は別のところにあります。
それは、捕鯨が大々的に行われることによって損失を被る第三者の存在が鍵となります。
それは、主に肉牛の生産業者です。

牛肉と鯨肉は、比較的に代替性の強い食材です。
トレードオフ、競合の関係にあります。
当然、肉牛の生産者は、捕鯨の拡大によって牛肉の需要の落ち込むのを危惧します。

今回の事件で、オーストラリアは、シーシェパードに同調し、擁護、支援する姿勢を強く見せました。
オーストラリアは、有数の牛肉生産国です。
しかも、日本は金額ベースで最も大きな輸出相手国です。
日本の捕鯨の本格的な再開に不安と不快感を抱くのは自然の理です。

背景にそういうことがあるかも知れません。
そのため、畜肉の業界や政府が活動の後押しをしているのです。
政府は、業界や国民に迎合せざるを得ません。
彼らは政権の大切な支持基盤であるからです。

このような活動に対する支持や支援は、言論やアナウンスメントによるものばかりではありません。
業界からは、実物的な支援が積極的に行われているのかも知れません。
寄付金などによる資金援助や、活動に必要な物資の提供です。

彼らのような過激な活動には、多額の費用がかかります。巨額な資金が必要です。
それがなければ、彼らの活動は成り立ちません。
彼らは、必ずそれをどこかから調達しているはずです。
それが捕鯨再開が不利益となる業界などの関係者だということです。

捕鯨に反対する理由も様々です。
鯨は激減しており、保護は絶対的に必要だする主張があります。
鯨の多くの種類が、絶滅の危機に直面しているというものです。
また、獲り過ぎが生態系を乱しているという懸念を訴える人々もいます。

その一方で、鯨が増えているために、身近な水産資源が減っているという調査結果を掲げる人々もいます。
鯨が主に補食しているのは、イワシ、サンマ、イカ、オキアミなどです。
それらに深刻な影響があるというものです。
身近な水産資源を減らさないためには、捕鯨も必要だということです。(→参照1参照2

反捕鯨には、心情的な理由も介在しています。
「鯨が可哀想」というものです。「痛々しい」、「酷い」というものです。
自己の精神作用と同化させます。いわゆる同情です。

心情、感情は、人間行動を最も強く規定します。
論理、真理、正しさよりも、心情や感情が決定を左右するということは、しばしばあります。
この要因は、決して疎かにできません。

ただ、鯨が牛や豚より、より人間に近い精神的な働きを持っているかは疑問です。
少なくとも、猿の方がはるかに人間に近いでしょう。
でも、牛や豚を殺すことの対しては、大きな感情的な反駁は沸き上がりません。
「可哀想だ、やめろ!」と叫ぶ人はいません。(ただし、インドでは牛の殺生はタブー)

人間は、結構、矛盾しています。
思い込みや自己都合、経済的損得によって、価値観や考え方を変転させことがしばしばです。

この心情論、感情論を優先させ、先鋭化すれば、極端な考え方にも陥りかねません。
例えば、「堕胎は酷い殺生である。だから、その手術をした産婦人科医は殺さねばならない」というようなものです。
偏執による暴走です。

確かに、仏教でも「不殺生戒」という大切な戒律があります。
しかし、これを字義通りに受け取り、墨守すれば、人間は生きていけないことになります。
私たちは、生命体そのものを摂取することによって、自らの命をつないでいるからです。

全ての生き物に対し不殺生を実践すれば、誰も生きていけないことになってしまいます。
そんな馬鹿なことはありません。
そんなことを釈尊が衆生に求めているはずはありません。

私は「不殺生戒」を、「食べるために必要な生き物以外は殺すな」という意味に解釈しています。
従って、遊興や趣味のために生き物を殺傷することや、生き物を犠牲にした料理を残すことには抵抗があります。
食べもしないのに生命を奪うことは、彼らをいたぶることであり、命に対する冒涜であると思うからです。
罪の意識を覚えます。

いずれにせよ、今回の反捕鯨の活動家が過激な行動をとる理由は、上に挙げた3つの要因のうち1つかもしれないし、その全ての複合かも知れません。
あるいは、他の原因が強く絡んでいるかも知れません。

しかし、今回の反捕鯨団体の過激な行動には、生命に対する優しさや愛というものは、残念ながら感じられません。
純粋でないからでしょう。独り善がりだからでしょう。

もちろん、日々地道に、誠実に環境改善や自然保護に取り組み、刻苦奮闘している人々も多くいます。
彼らは、自己犠牲さえ厭わず、献身的です。
頭が下がります。

結局のところ、自然保護や環境改善に名を借りて、暴力的な行動に走ったり、自己の利を追う者たちは、地道で誠実な活動に取り組む人々を冒涜し、貶めるものです。
その意味でも、今回の暴力的で過激な行動は批判され、戒められるべきでしょう。