戸越銀座斬りつけ事件

商店街で刃物を振り回した少年の心に潜むものは?

正月気分のさめやらぬ5日、東京都品川区の「戸越銀座商店街」で高校生による斬りつけ事件が起きました。
同区の私立高校2年の男子生徒(16)が刃物を振りかざし、無差別に通行人に切りかかったというものです。
5人が傷を負いました。幸い命を奪われた人はいませんでした。

この少年は、なぜ松の内(正月7日)に人通りの多い中で刃物を振り回したのでしょう。
少年の心を推理してみたいと思います。
仮説、私見が含まれていることをご理解下さい。
少し長くなります。

この少年は、自暴自棄になっていました。
正常な心理、理性的判断力を失っていました。
錯乱的で、心神耗弱状態にあったといってよいでしょう。

実際、少年は数年前から精神科に通院していたといいます。
精神的に深く病んでいたと言うことです。
追いつめられていました。

自暴自棄の中には、自己否定の心理が含まれます。
自己否定は、他者否定に連鎖します。
他者否定は、自己否定の裏返しです。盾の両面といってよいでしょう。
すぐに反転します。

彼は自己否定の心理を他者に転化させました。
自傷行為の代償として他者を傷つけたということです。

そういうことは、しばしば起こりえます。
究極的な形が自殺、あるいは他殺です。
両方が共に起こることも少なくありません。
他人を殺傷した上で自殺するということです。

この少年は、他者を無差別に傷つけました。
しかし、まだ問題は解決されていません。
自殺への道へ突き進むと言うことも懸念しなければなりません。

では、この少年はなぜ強い自己否定に陥ったのでしょう?
厭世的な自暴自棄に陥ったのでしょう?
原因は、いくつか考えられます。

ヒントは、警察の調べで判明したことの中にもあります。
調べの中で少年は、次のように語っています。
「中学校時代、いじめられて数回転校した」、「昔から学校でいじめられていた」、「自分には友人が一人もいない」。

彼が、いじめという暴力的加虐の中で、次第に精神的に深い傷を負い、病んでいった可能性は大です。
「通学の負担を減らしたい」ということで、06年10月から通信制コースに変わってもいます。

いじめは、個人の自尊心、尊厳を破壊します。
人権尊重の対極にあります。
繰り返しのいじめは、精神を深く病ませるに十分です。

ほとんどの犯罪の背後には、人間による人間への加虐(いじめ)が根底にあります。
全てといってもいいかも知れません。
犯罪の実行者は犯人自身ですが、その背後には、彼をそこに追い込んだ者たちがいるということです。
彼らこそ、影の主犯です。真の犯罪者とさえ言えます。
彼らが存在しなかったら、直接の実行犯が誕生することはなかったでしょう。

ただ、彼らが罪に問われることはありません。
彼らは常に自分の悪事が発覚することのないように、狡猾に加虐を行います。
違法行為として摘発されることのないように警戒します。
彼らは罪責から逃れ切ります。

実際、この少年も長い間、周囲の級友などから酷いいじめを受けてきたようです。
それは、数年前から精神科に通院していたということとも大きな関連性を持っていると考えられます。

もちろん、いじめだけで他人に刃物を向けるということには限界があります。
家族の支えがあれば、それほど自暴自棄になることはないからです。
暴発のエネルギーを抑制する力が働きます。

彼は、自分や世の中がとことん嫌になっています。
その心理の背景には、家族、特に親への嫌悪、憎悪の感情が潜伏しています。
彼らの真の愛に恵まれていないということです。
真の愛とは、相手を守り、理解し、支え、味方になるということです。
それらがなかったということです。

親による溺愛、干渉、支配、抑圧などが、幼い頃から強く一貫していたのかも知れません。
少年にとって親は、庇護者から、次第に敵対者に反転していったのかも知れません。
うざったい、むかつく存在から、憤怒や憎悪の対象になるということです。
「事件直前に母親とトラブルになっていた」という警察の調べもこれを示唆します。

精神の呪縛は、精神から健全性を奪います。
精神的な抑圧、束縛は、少年の健全な成長を妨げ、病ませ、歪ませます。
それは、抑圧、暴圧された社会ほど、社会病理が深刻に発生するのと同じです。

少年の精神的な症状の根底には、親との矛盾関係があったことが強く疑われます。
彼は、親をも否定し、消し去りたいという意識に強くとらわれるようになっていたかも知れません。

このような場合、ほとんど例外なく両親の夫婦仲は険悪です。冷え切っています。
深い確執があり、たいてい家の中では衝突が繰り返されています。
しばしば暴力沙汰もあります。

それを目の当たりにし、子供たちは吐き気を催し、悪性のストレスを抱き、嫌悪感を充満させていきます。
親の分裂は、自己の分裂でもあります。
自分は、両親の2分の1ずつの合一によって存在を得ているからです。
親に対する否定は、自己否定をもたらし、増幅していきます。

両親がお互いに対する愛情がなくて、子供に対し、真の愛情が注げるはずはありません。
夫や妻に対する愛情と、子供に対する真の愛情には通底するものがあります。
与える真の愛情の深さは、相手によってそれほど大きく変わるものではありません。
あくまでも見せかけの愛情ではなく、真の愛情についての話です。

親に対する反感、怒りや憎しみは、人に対するそれらに波及していきます。
親を嫌悪する者は、人を嫌悪します。
親を憎む者は、人を憎みます。
両者は、たいてい連動しています。

この少年は、長い間いじめを受けていたと思われると前述しました。
これは、親がそれから子供を守ろうとしなかった、守れなかったと言うことです。
これも親への信頼を破壊するに十分です。

少年は、加虐から自分を守ろうとしなかった、あるいは守りきれなかった親に対して、根深い怒りと憎悪を抱いていたでしょう。
親の愛情を感じられなかったということです。
親に真の愛情がないということを見抜いていたと言うことです。

少年は逮捕直後、「塾の先生にしかられむしゃくしゃした」と話しました。
確かに、これは事実かも知れません。しかし、単なるきっかけに過ぎないでしょう。
親との関係が表沙汰になるのを危惧したのでしょう。

この期に及んでも、自分の親より他人を汚すことを潜在的に選んだのかも知れません。
いざとなったとき、親が批判され、名誉が大いに傷つけられるのを恐れたということです。
とっさの無意識の反射的反応です。
そこは、やはり血の繋がりを持った親子です。

一介の塾の講師が短期間で彼の精神構造を作り上げるはずはありません。
根深い怒りや憎しみを植え付けられるわけがありません。
そんなことができるはずはありません。

高校側は、少年は熱心に学び、トラブルは一切なかったことを明らかにしています。
副校長は「模範的な生徒。事件の兆候を見つけられなかった」と語っています。
少年は、家の外では「良い子」を演じていたということです。

人間は、「演技する動物」です。
物心のある子供でも、人前で演技する術を身に付けています。
多くの子供が、表の顔と裏の顔を持っていたとしても全く不思議ではありません。

教師側がそれを見抜けなかったとしても当然です。
よほど生徒との密接な関係、深い信頼関係がなければ、子供の本心、本性を察知するのは容易ではありません。
そのような関係が生徒と教師の間にあることはまれです。例外的であると言っていいでしょう。
学校や教師に期待するのには限界があります。

少年は、煮えたぎる怒りと憎しみ、充満するストレスを内に抱えながら、それを何とか押さえ込んできたわけです。
ところが、今回は沸点を超えて、大爆発を起こしてしまいました。
それほど押し詰められた負のエネルギーは大きかったということです。

ただ今回、この少年は暴れ、騒ぎ立て刃物を振り回すだけでした。
冷酷・無慈悲に一人ずつとどめを刺すようなことはしていません。
底知れぬ残虐性はなかったということです。

やさしさのかけらは残っています。
そこにかすかな希望を見出せます。
これは少年が、どこかで、特に乳幼児期から幼年期にかけて、愛情や優しさを受けていたことを意味します。

ただ、いまだに負のエネルギーは、くすぶり続けています。
真の解決はなされていません。

今回の攻撃は無差別的でした。
いじめの加害者に対し直接なされた復讐ではありません。
従って、負のエネルギーは相殺されていません。
病根は、残っています。

今後、この少年は、どのような人生の道をたどるでしょう?
心の矛盾を解消するのは可能でしょうか?
負のエネルギーは解消できるでしょうか?
考えられるいくつかの行方を推測してみます。
次のようなものです。

1.いじめの加虐者や、怒り、憎しみの対象者に対し、直接的に復讐をする。
 この場合、少年の負のエネルギーは相殺されます。
 矛盾は解決し、心の澱は除去されるでしょう。
 しかし、現実的には、この方法を実現するのはほぼ不可能です。
 特に加虐者が多数の場合はそうなります。

2.親が少年に、真の愛情を注ぎ、少年を支える。
 この場合、親が少年に自分たちの愛情不足、力不足を謝罪することも必要です。
 ただ、この場合、親がどこまでそれを実行できるかです。
 親が変わることは容易ではありません。

3.素晴らしい人間的な出会いに恵まれる。
 素晴らしい人生の導き手など、世の中にそうそういるものではありません。
 少年の心をいやし、成長させる人間に少年が出会うことは至難です。
 幸運の女神に頼るしかありません。

4.自傷、自殺に自分を追い込む。
 これが現実化することは、かなりあり得ます。
 そうなる前に周囲が手を尽くすことが求められます。
 医療、薬剤の活用も必要でしょう。

5.精神的な錯乱状態を進行させる。
 この場合、専門の治療施設に収容されることになるでしょう。
 最終的に、上記4の事態に至る可能性があります。
 
6.弱者に対し、無差別的な暴力(加虐)を繰り返す。
 負のエネルギーを発散、暴発させ続けるということです。
 犯罪者として、捕縛、勾留されない限り、加虐は繰り返され、犠牲者は積み重なる恐れもあります。
 根本的な矛盾が解消されずに放置されているからです。
 解決は厄介です。

上記2,3以外、少年が歩む道は、全く好ましいものではありません。
この少年が、2,3の解決方法に恵まれることを願うばかりです。
それは、親を中心とする周囲の人間の関わり方に依拠するといってよいでしょう。
人間は人間の中で生き、人間によってしか変われないし、救われないからです。