◆薬害肝炎の責任は国民にはない
薬害C型肝炎の問題が、ようやく解決に向かって大きく前進し始めました。
議員立法による「全員一律救済」が表明されています。
しかし、手放しでは喜んではいられません。
根本的な解決がなされていないからです。
同じような薬害が再発する可能性は、依然として残されています。
薬害は、いつ自分の身に降りかかってくるか分かりません。
人を選びません。
そこで、この問題の本質、及び解決策について迫ることにしました。
まず、今まで起きた主な薬害とその被害者数などについて概要をまとめてみました。
次のようになります。(→参照)
・サリドマイド薬害…睡眠薬、つわりの緩和薬。奇形児の出産。被害者約900人。
・キノホルム薬害…整腸剤。歩行困難や視力障害(スモン病)。被害者約1万2千人。
・薬害エイズ…血液凝固製剤。HIV感染、エイズ。被害者約1万2千人。
・薬害C型肝炎…止血剤(フィブリノゲンなど)。C型肝炎。発症者約1万人。
今回問題となっているのはC型肝炎です。
その感染経路には、主に次のようなものがあります。
輸血。注射器、カテーテル(注入器具)、刺青針などの再使用。
※C型肝炎の性行為での感染、母子感染はまれであるとされています。
※C型肝炎感染者の大部分は、医療行為が原因で感染したものと推測されています。
輸血は、血液製剤の投与によって行われます。
ウイルスに汚染された血液製剤による感染は、まさに薬害ということになります。
この薬剤の被投与者は、現在30万人近いとされています。
何らかの原因によるC型肝炎の感染者数は、全体で約200万人と推定されています。(→参照)
※肝臓のがんでは毎年3万人以上が亡くなっていますが、このうちの実に70%以上がC型肝炎が原因です。
※B型肝炎は、性行為での感染、母子感染が多く、血液製剤での感染はまれであるとされています。推定感染者数、約150万人。
ではなぜ、このように膨大な数の感染者が発生してしまったのでしょう。
確かに、注射器やカテーテルの使い回しにより、感染者が広く拡散したことは事実です。
実際、そのような深刻な違法行為が、医療現場で次々と明らかになっています。
しかし、多くの場合、それは二次的な原因です。
彼らは、二次被害者です。
その根底には一次的な感染者がいます。
危険な血液製剤を投与された人々です。
彼ら被害者自身が感染源となってしまったのです。
そこには極めて、人為的な瑕疵のはっきりした原因が横たわっています。
それは、危険で有害な血液製剤の使用を認可し続けたことです。
薬事行政に関わる責任者(主に厚労省の高級官僚)が、薬害の存在を認識していながら、それを放置し続けたことです。
米国は、1977年、フィブリノゲンと同成分の製剤の製造承認を取り消していました。
それらの血液製剤による薬害を把握していたからです。
日本でも、1979年には、一部の研究者がこうした事実を指摘していました。(国立予防衛生研究所血液製剤部長・安田純一氏)
また、ミドリ十字社も、1978年に、フィブリノゲン製剤の承認取消が掲載された米国連邦広報を入手し、社内で回覧していました。
にもかかわらず、旧厚生省の指示により自主回収が始まったのは1987年からです。
完全に回収されるまで実に10年間以上を要しています。
この期間に多くの感染者が発生したわけです。
感染の被害者は、次のような負担を強いられます。
肉体的な激痛。精神的な苦悩。経済的な多額の負担。膨大な時間的損失。
家族への重い負担。周囲の人間関係への深刻な影響。
これは何年も、何十年にも渡って患者を襲います。
それどころか、症状、状況は悪化の一途をたどります。
自分が同じ立場に置かれたことを考えてください。
決して、人ごとではありません。
当然に、彼らは全員早急に救済されなければなりません。
何の責任も罪も彼らにないからです。
それは、まさに行政の担当者や製薬会社にあるからです。
しかし、この責任や罪を「国」という言葉で一括りにされています。
何か全国的な大きな問題となったとき、いつもこの言葉が登場します。
この言葉は、実に都合よく利用されています。
一体、この場合の「国」とは何でしょう?
「国」が「行政、あるいは権力」と同義であるとするなら、まさにその通りです。
言葉の誤用はないと言えるでしょう。
そうなると、愛国心は、「愛政治権力心」、「愛国家権力心」と同化してしまいます。
「愛国」という場合の「国」という言葉の裏には、しばしばそれが潜伏します。
しかし、多くの国民は、「国」という場合、自分たち国民全員が形成、構成する共同体をイメージしているはずです。
国民全員を包括する社会です。
総体としての国です。
憲法で前提とする「国」に等しいでしょう。
政治や権力の支配対象ではありません。
それらの象徴、ないし表象ではありません。
ところが、そうなると、「国の責任」という場合、私たち誰もが責任を負うことなってしまいます。
国民は総懺悔をしなければならない、と言うことになってしまいます。
そんな馬鹿なことはありません。
これは、まさに「国の責任」などと言う曖昧、抽象的な言葉を前面に押し出しているからです。
そこには、責任の特定を避けようとする意図が働いています。
巧妙なすり替えです。
繰り返しますが、真の責任の所在は、薬剤の使用を認可し続けた行政の担当者(役人)や製薬会社にあります。
「国」全般ではなく、特定の個人や機関(組織)です。
「国の責任」ではありません。国民全体の責任ではありません。
従って、発する言葉は「行政の責任、~の責任」とすべきなのです。
それではなぜ、彼らは極めて有害で危険な薬の使用を見逃し続けたのでしょう。
核心は、天下り、利権にあります。
製薬会社を儲けさせることによって、天下り先を確保できます。
仲間(上司、同僚、部下)のためもあります。
彼らは、徒党を組んでいます。
彼らは、そこで思い切り豊潤な甘露を得ることができます。
製薬会社も、彼ら行政権力の庇護の下で私腹を肥やし続けることができます。
同じ穴の狢です。
薬剤利権の肥大です。
結果、彼らは犠牲者の痛み、苦しみ、悲しみには目をつぶります。
一例を挙げます。
先の11月2日、医療・介護情報を扱うCBニュースで次のように報じられました。
「薬害肝炎問題に絡み、フィブリノゲンの投与を受けた患者がC型肝炎を発症している事実をつかんでおきながら、旧厚生省の天下り官僚と現職の官僚が口裏を合わせて揉み消しを図っていたことが、11月1日に開かれた参議院厚生労働委員会で明らかになった」。
旧厚生省の天下り官僚というのは、今村泰一・旧ミドリ十字東京支社長です。
今村氏は、旧厚生省薬務局企画課長補佐を経て国立衛生試験所総務部長を務めました。
彼は、旧厚生省時代、薬害エイズ問題にかかわった松下廉蔵・薬務局長に仕えています。
松下氏は、旧厚生省と旧ミドリ十字が同意した当時、旧ミドリ十字の社長でした。
このように、製薬会社と官僚には持ちつ持たれつの深い関係があります。
俗に言うズブズブの関係です。
重大な隠蔽工作も行われています。
フィブリノゲンによってC型肝炎に感染した418人分の個人ごとの情報が記載された症例リストを厚労省は保持していました。
その中には、1987年以降の資料が含まれていました。
しかし、厚労省はそれらを2007年10月まで放置してきました。
厚労省は「個人を特定できるデータはない」と、その存在をかたくなに否定してきました。
「国や製薬会社は、20年以上も薬害の事実を隠蔽してきた」ということです。
ここには、薬害エイズの時と同じ構図があります。
背徳の歴史は繰り返されています。
その結果、膨大な負担が国民に押し付けられています。
病気による痛みや苦しみばかりではありません。経済的な負担もです。
薬害が放置されたために莫大な医療費が必要となります。
それらの大部分を税金で賄わなければならないということです。
それは、国民一人一人の家計から徴収されます。
現在、与党は、被害者への補償額を肝がんや肝硬変の場合は4千万円、慢性肝炎は2千万円、)感染だけの未発症者には1千2百万円と状態に応じて一時金として支給する案を軸に調整しています。
現在の血液製剤による感染者は1万人です。
仮に、彼ら全員に対し、平均して1人2千万円の補償を行うことになれば、財政的な負担は2千億円となります。
国民1人当たり平均2千円近く、4人家族なら7,8千円の負担が押し付けられます。
この負担は、長い将来に渡って続く可能性があります。
全く責任も罪もない、むしろ被害者である国民がこのコストを負うわけです。
※ただし、現時点では、救済されるのは最大1千人程度とみられています。ほとんどの被害者が投与の証明できる記録を入手できないためです。当時のカルテの保存期間は5年間です。既に閉院した医療機関も少なくありません。
先に述べたように、このような薬害は再び起こる恐れが大です。
その最大の原因は何でしょう?
それは、何より犯人(責任者)が具体的に特定され、断罪されないことです。
元凶が有耶無耶にされているということです。
従って、解決方法もそこに求められます。
つまり、徹底的に犯人探しをするということです。
薬事行政に決定権を持った官僚、政治家、および製薬会社です。
認可には、必ず印鑑を押した人間がいるはずです。
彼らの責任を厳しく問うことです。
当然、彼らには損害賠償も請求すべきです。
退職した者も同じです。
逃げ得を許さないということです。
もし罪を問わず、賠償も課せないとすれば、綱紀はゆるんだままでしょう。
奸智の働く彼らは、巧妙な逃げ切りを図るでしょう。
追及の手を弛めれば、彼らの思うつぼです。
彼らは痛みも反省も責任も感じないまま、真の解決から隔絶してしまいます。
究極のモラルハザードです。
厳格な責任体制や法整備を進めておかないと、自分たちがいつ被害に遭うかわかりません。
その確率は確実に高まります。
その時になって、責任体制の不足や法整備の遅れを嘆いても遅いでしょう。
自分のこととして考えるべきです。
繰り返しますが、犯人探しの手を弛めてはなりません。
曖昧模糊とした「国の責任」という言葉で誤魔化してはなりません。
問題の本質をすり替えてはなりません。
まず言葉を厳密にすること、それが急務です。
それは、世論の力と政治家の奮闘にかかっています。
それができるかどうかで、将来の薬害根絶の成否が決まります。
油断なく注視していくことが求められています。